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中日・松山晋也が侍ジャパンで背番号15を選んだ理由が明かされる

松山晋也

■2024.02.14 侍ジャパンチャンネル – YouTube


「カーネクスト 侍ジャパンシリーズ2024 日本 vs 欧州代表」出場選手発表記者会見 2024年2月14日



■2024.02.16 中日スポーツ


■2024.02.16 中日スポーツ

球団の歴史背負う…中日・松山が侍Jで“背番号15”を選んだ理由「黒田さんを好きというのもありますが…」
中日・松山晋也が侍ジャパンで背番号15を選んだ理由が明かされる

 「僕が黒田(博樹)さんを好きというのもありますが、ドラゴンズではつけられない番号なので」。

 チームの永久欠番へのリスペクトが、選んだ理由だった。「戦争に行かれた方ですよね。確か去年亡くなって…」。前半は当たっているが、後半は恐らく杉下茂さんと勘違いしている。そこからおじさん記者の球団史の授業が即席で始まり、彼も耳を傾けてくれた。

 初代ミスタードラゴンズ・西沢道夫。1935年冬、翌年の正式発足に向けて名古屋軍は養成選手を募集した。合格者9人の中に、まだ14歳の西沢も含まれていた。16歳0カ月での初出場は、恐らく今後も破られることのない最年少記録だ。

 42年には5月に延長28回完投(日没引き分け)という、これまた永久不滅の世界記録を打ち立て、7月には無安打無得点を達成した。投手として60勝。ただし、背番号は主に17だった。応召をはさみ、右肩を痛めて戦後は打者に転向。15をつけたのはチームに復帰した49年からだ。打者としては1717安打、212本塁打。昨年岡林が塗り替えた連続試合安打の球団記録も、実に74年間、西沢がもっていた。

 今ならば間違いなく二刀流のスーパースター。58年に引退するまでと、コーチ、監督を務めた63年から66年までは15をつけていた。

 28回を投げたこと。シーズン5本の満塁弾を打ったこと。松山は目を丸くして聞いてくれた。理解は後からでもいい。ドラゴンズの歴史を背負って、晴れ舞台に臨もうという心意気がうれしい。いわば練習生の立場からミスタードラゴンズになった西沢と、育成ドラフトから1年で侍ジャパン入りした松山。急激な成長曲線も、何だか重なって見えた気がした。

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中日・松山晋也「僕は学生のときから岩瀬さんのYouTubeを見ていて、『フルタの方程式』に出られているのも見たんですけど、そのときに岩瀬さんが…」


侍ジャパン選出の中日・松山晋也「日の丸の責任を感じる必要はないと思っている。自分のやるべきことをやる。日の丸もドラゴンズもユニホームは変わらないと思うので、素材も(笑)」


松山投手が明かしました。

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