■2023.06.28 Full-Count
即戦力ドラ1のはずが…打撃投手で過ごす日々 登板ゼロの1年目「嫌われていたのかな」#dragons #中日ドラゴンズ #npb #FullCount10thhttps://t.co/0DvhHcTzMQ
— Full-Count フルカウント (@Fullcountc2) June 27, 2023
■2023.06.28 Full-Count
即戦力ドラ1のはずが…打撃投手で過ごす日々 登板ゼロの1年目「嫌われていたのかな」
打撃投手で1軍に帯同…芽生えた「絶対見返してやる」の気持ち
「あの頃はバッティングピッチャーの数が少なくて、1軍がナゴヤ球場で試合の時は2軍から若手投手が1人か2人、ピックアップされて手伝いに行って投げていた。そこに、いつもいの一番に俺の名前があった。1シーズンずっと。そんなふうになって何も思わないわけがないでしょ。屈辱だった。俺は何しに来たんだろうって思った。同級生の牛はバンバン投げているわけだし……」
中日主催の北陸遠征に呼ばれた時も忘れられない。「新聞記者に『鹿島君、1軍に上がったのか』って冷やかされた記憶がすごくある」。ドラフト1位のプライドなんて、ズタズタだった。
「ナゴヤ球場で(2軍がデーゲーム、1軍がナイターの)親子ゲームの時は朝、球場に行って、2軍の試合を見て、練習して。練習といっても走るだけで、それから1軍のバッティングピッチャーをやって、帰って風呂に入って、また球場に行って1軍のゲーム見学。あれも屈辱だったなぁ」。
芽生えたのは「絶対見返してやる!」との強い気持ちだった。このままで終わってたまるか。ただ、その一心だった。中日はその年、リーグ5位に終わり、近藤監督は辞任。翌1984年シーズンは山内一弘氏が監督に就任した。
2年目の鹿島氏はキャンプから頭角を現し、開幕3戦目、1984年4月8日の広島戦(広島)に2番手でプロ初登板を果たした。1年目の中日首脳陣にどんな思惑があったかわからないが、その屈辱の日々が間違いなくバネになった。
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中日球団フロント「背番号18と20が空いているよ」 鹿島忠さん「(18がエース番号だと思ったから遠慮したつもりで)じゃあ20番をください」 中日球団フロント「えっ。ちょっと待ってくれる」「鹿島君、18をつけなさい」
鹿島忠さんが「あの辺の仕草が立浪監督が入ってきた1年目によく似てる」と語る中日・土田龍空の“仕草”は…
当時のことを振り返りました。