
■2025.11.02 webスポルティーバ
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【MLB日本人選手列伝】大塚晶文:「ポジティブ・シンキング」で大成功 リリーバーとして確かな実績を残したメジャー3年半の輝き
「日本でプレーしていた時は、40〜50球は投げて登板に備えていましたけど、メジャーの場合は2分くらいで肩を作らなきゃいけない時もありました。オープン戦で、8回に投げる予定だったのが、4回に突然、『アキ、行くぞ』と言われたんです。えっ、マジで? みたいな。
アメリカはなんでもアリなんだなと思いつつ、慌ててブルペンで10球くらい投げただけで、それでも抑えられたんです。この経験で、これまでの考え方から自由になれました。なんなら、登板して、抑えて、翌日の新聞に出て、みたいなイメージトレーニングまでできるようになりました」
2004年は7勝2敗、防御率は1.75。34ホールドはナショナル・リーグのトップだった。WHIP(1イニングあたりのヒットと四球の総和)は1.06と抜群の成績を残した。アメリカで「ポジティブ・シンキング」を身につけたことで、大塚は大成功を収めたのである。
2005年は22ホールドにとどまったが、2006年にテキサス・レンジャーズへのトレードが決まる。この年の3月にはワールドベースボール・クラシック(WBC)の日本代表のクローザーとして、世界一に貢献した。レンジャーズでも当初はセットアッパーだったが、抑え役の不調によってクローザーへと昇格。2勝4敗32セーブという堂々たる成績を残して、3年目のシーズンを終えた。
2007年もレンジャーズ・ブルペンの貴重な戦力となり、7月上旬までWHIPの数値は1.08。大塚がメジャーリーグで成功したのは、抜群の制球力があったからだと言える。残念ながら、右肘を痛めて7月9日に故障者リスト入り。レンジャーズからは再契約の打診はなく、FAとなった。復帰を目指して2008年にはトミー・ジョン手術に踏みきったが、再びアメリカのマウンドに立つことはなく、次に大塚が公式戦で登板するのは2014年、日本の独立リーグ、自身が監督を務める信濃グランセローズのユニフォームを着ていた時のことだった。もしも、肘の故障がなかったら……大塚はもっと長いキャリアをアメリカで築いたかもしれない。それでも4年間で大塚が見せたピッチングは、いまも鮮やかな記憶とともにある。
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試合中の中日・大塚晶文コーチの会話「やべぇなマジで!この状況どうする?」「マツキ、ちょっとまだ早い!ピンチちょっと早い!もうちょい粘って!」
YouTubeを見ていた中日・祖父江大輔投手「現役時代の大塚さん、凄いフォークを投げるなぁ」 → そのイメージでフォークを投げると好感触 → それを大塚晶文コーチに報告すると…
当時のことを振り返りました。












