■2024.05.13 中日スポーツ
母の目に悲しみの涙…中日・大塚コーチの原点「自分で決めなさい」息子のような年頃の投手陣を信頼と愛情で束ねる#中日ドラゴンズ #ドラゴンズ #dragonshttps://t.co/LRebSmjXGJ pic.twitter.com/vfq9VA0g5V
— 中日スポーツ (@chuspo) May 13, 2024
■2024.05.13 中日スポーツ
母の目に悲しみの涙…中日・大塚コーチの原点「自分で決めなさい」息子のような年頃の投手陣を信頼と愛情で束ねる
セ・リーグではカード初戦の開始前に行われる国歌演奏。大塚投手コーチは亡き母に思いをはせて、地面を見つめる。
「米国(大リーグ)でもそうでした。下を見るのはあの事件のときに下が砂利だったことをなぜかよく覚えているから。僕の原点。あの日を境に本当にプロ野球選手になろうと思ったので。だから、心の中で母に『ありがとう』とつぶやいて、下を見るんです」
家庭の事情で、3人きょうだいを一人で育て上げたのが母・桂子さんだった。小学4年のとき、その母を裏切った。友人の誕生会に誘われ、野球の練習をサボったのを、見つかった。きつく叱られて、うつむいて砂利を見ていた晶文がふと顔を上げると、母の目に涙がたまっていた。子ども心に、怒りではなく悲しみの涙だとわかった。「野球をやめるか、今すぐ練習に行くか。自分で決めなさい」。2度と野球をサボることはなかったからこそ、今の彼がある。
桂子さんは晶文が千葉・横芝敬愛高1年冬に他界した。ガンが見つかってから1年もたっていなかった。東海大、日本通運、近鉄、中日とキャリアを積み、大リーグ移籍が決まった2003年オフ。母が亡くなる前から後見人として支えてくれた夫婦から予期せぬ物を手渡された。母から末っ子への手紙の束。病床で書き続け、託していたのだ。秋には達筆で力強い筆跡だったのが、冬になると細く、乱れた文字になっていた。驚くのは高校生の晶文にではなく、まるでプロ野球選手に宛てたような内容だったことだ。
「プロになると思って書いているんですよね。嫌なことを率先してやれる人間になりなさい、人の気持ちがわかる人間になりなさい。僕はそんな母が球場の席に座っていると思ってやっているんです。あの日、母の涙を見て、僕は改心した」
命尽きるまで書き続けた手紙の束はわが子の未来を信じ抜く母親の愛情の深さを教えてくれた。時に見せる心の甘えを見透かしたように諭してもくれた。そんな末っ子は母が亡くなったのと同じ52歳。息子のような年ごろの投手陣を信頼と愛情で束ねている。
記事全文を読む
中日・大塚晶文コーチ「そりゃ(松葉と梅津で)迷いましたよ。でもね、今年の梅津は一年間を投げさせるっていうのがチームの方針です。ここで一皮むけないと先には進めません」
中日・大塚晶文コーチ、松山晋也をうまく“洗脳”「調子どうや」 松山晋也「絶好調です!」
大塚コーチが明かしました。