■2020.04.30 中日スポーツ
“背番号”譲り剥がされ計6回…21年間の現役振り返った森野さんのホンネ「やっぱり1つの方が良かった…」
[野球ファンに届ける 本紙評論家リレーコラム]森野将彦
自分ほど背番号が変わった選手はいないと思う。入団会見の直前に当時の星野仙一監督の“鶴の一声”で56から7に変わったのがスタート。「ドラフト2位で高卒なのに、7でいいのかな」と思っていた3年後の1999年7月、当時来日2年目だった李鍾範選手の希望で7と8を交換。その2年後の2001年途中、今度は波留選手がトレードで加入したときに、8を渡して空いていた16に変わった。「なんでだよ」。心の中でつぶやくしかなかった。
7→8→16→8→31→30→7。入団前の56は別として、現役21年間で実に6度の変更があった。04年は当時の落合監督が「16は投手がつける番号」と言って8に戻されたが、06年にはドラフト1位で入団する平田につけたいと、はがされた。その年から31。幼少時に憧れていた掛布雅之さん(阪神)の番号だったし、これなら動かされないだろうと選んだ。その31も、09年オフに当時の落合監督から立浪さんが直前まで背負った3への変更を指示されたが、「自分には重い」と辞退。すでに31は別の選手の番号になっていたから仕方なく30にした。
思えば自分から変更を望んだのは、14年から引退まで背負った7だけだった。背番号が6度も変わった野球人生を振り返ると、これだけ続けられたと誇りに思う半面、やっぱり一つの方がよかった。入団時の「7でいいのかな」ではなく、最初から、もっとしがみついて必死に努力すればよかったと感じている。
現在の中日では、根尾が7、石川昂が2と、高卒でいきなり1桁を背負っている。それ自体を否定するつもりはないが、51から1になった鈴木誠也、63から9になった丸佳浩(現巨人)のように、実績を残して1桁へ、という広島の方法も一つの手だと思うがどうだろう。はく奪されるあの悔しさを、後輩たちには味わってほしくない。
記事全文を読む
森野将彦さん「強肩や俊足に頼ると成長は止まる」 中日・根尾昂へ金言
フォロワーさんの反応 / ネットの反応
やっぱり剥奪されると悔しいだろうなあ
背番号だけでなくポジションもチーム事情でころころ変わった
チームにとって助かる存在だったが、一方で扱いが軽かったようにも思える
3の提案をした時点で31が決まってたというのはちょっと酷いな
そこは本人の意志を確認してから、31をどうするか3をどうするか決めるべきだった
背番号ってやはり大事にする球団とそうでない球団の差が大きいですね
09年オフに落合監督から「3は、どうだ?」と落合さんが認めてくれたんだから、3に変更すれば良かったのではと思ってしまう
森野さんは31番のイメージが強い
コロコロ変わることで当時は思うところはあったでしょうが、ポジションも背番号も経験豊富と捉えたら、森野さんにしかわからない世界があるはず
文中で変更や交換など、様々な言葉を使って背番号が変わっていく過程を説明しておられたが、最後のはく奪という一言に、森野選手の野球人としての思いが込められていたように思う
でも、どんなに剥がされてもやっぱり高卒新人で一桁背負った森野への期待は大きかったし、どの相手よりも結果的には活躍した
立浪からポジション奪った森野を誇らしく思った
すごくポジティブに捉えるならば、それだけ色んな番号から愛されていたということ
どの番号の森野であっても、変わらず好きでしたよ
これほど実績のある選手にも関わらず、これほどまでに番号が変わった選手はなかなかいませんからね…。一つ一つの言葉に重みを感じます…