■2024.12.15 中日スポーツ
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■2024.12.15 中日スポーツ
審判員となった父追いかけ…中日“ドラ1”金丸夢斗が親子で目指した夢の甲子園 泣き虫左腕には類まれな制球力
金丸の野球人生は生まれる前から始まっていたのかもしれない。「どうしたら、審判員になれますか?」。2000年6月。当時24歳だった父・雄一さん(48)は自ら、高校野球連盟に電話した。公務員として働きながらボランティアでアマチュア野球の審判員を志した。2カ月後、念願だったブルーのアンパイアシャツに袖を通す。母・淳子さん(47)のおなかの中にいた兄・翔太さん(24)が生まれる直前のできごとだ。
兵庫・明石トーカロ球場。ベビーカーに乗っていた金丸は外野の芝生をころころと転がっていた。兄弟で父のジャッジ姿を応援しに行くのが日課。最初は目で追っていただけの白球を、いつしか握りしめていた。「ピッチャーの球が速くて純粋にかっこよかった」。小学1年から地元・神戸市の広陵少年野球部でプレーを始めた。
雄一さんは審判10年目で甲子園デビューを果たした。どうして父は審判員を目指したのか―。軟式野球部で中学生活を送り始めた金丸は「僕のお父さん」と題した作文を書いた。後に神戸市立教育研究会に表彰された作文にはこう書かれている。
『高校生のときの最後の試合で負けてしまった悔しさは、今でもずっと心の中に残っていると言っています。そして選手として行けなかった甲子園へ行く方法を考えたそうです』。聖地に立つ夢を、父は審判員としてかなえたのだ。
『小さい頃から、土、日にお父さんが家にいないのが少し寂しかったです。たくさんの研修をうけて、勉強して、そして実技のテストがあって、まるで学校に行っているみたいです。お父さんを誇りに思います。次のお父さんの夢は、僕が高校まで野球を続けて、あきらめず甲子園を目指すことだそうです』
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金丸投手が明かしました。