■2024.09.26 Full-Count
指揮官から「好きにせい」 “やりたくない”捕手からの解放も…阻まれた1軍の壁 #dragons #中日ドラゴンズ #npbhttps://t.co/fNlqw48pcl
— Full-Count フルカウント (@Fullcountc2) September 25, 2024
■2024.09.26 Full-Count
指揮官から「好きにせい」 “やりたくない”捕手からの解放も…阻まれた1軍の壁
プロ初本塁打は5年目…前年オフに人命救助でリーグ表彰
そんな山崎氏が野球以外で脚光を浴びたのは1990年オフ。12月19日、愛知県知多市内の実家近くでの出来事だった。「中学の時に相撲を教えてもらったり、お世話になっている方のちゃんこ(鍋)のお店に行っていた時、隣のお肉屋さんが火事になって……」。山崎氏は知人らと勇猛果敢にも火の中に飛び込んで、逃げ遅れた子どもたち5人を救助した。
そう簡単にできることではない。当時、大いに話題になった。「野球では(スポーツ紙の)1面を取れていなかったのに、1面になったところもあったのは覚えていますけどね」と照れながら話したが、セ・リーグ会長から特別表彰され、勇気ある男として、しばらく「レスキュー」が山崎氏の代名詞になった。野球はその後も下積み期間が続いたが、バットで結果を出す前からその名を知らしめた。
山崎氏がプロ1号を放った1991年シーズン限りで星野監督が退任した。1987年シーズンから始まった中日・星野第1次政権は5年で幕を閉じたが、“未完の大器”が完全覚醒するのは、そこからさらに5年後の1996年。星野第2次政権が始まった年だから、いかに遅咲きだったかはわかるところ。「レスキュー」と呼ばれた頃も1軍の壁に思い悩んでいた。でも、そこから通算403本塁打をマークするのだから、やはりただ者ではなかった。
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