■2024.09.26 Full-Count
指揮官から「好きにせい」 “やりたくない”捕手からの解放も…阻まれた1軍の壁 #dragons #中日ドラゴンズ #npbhttps://t.co/fNlqw48pcl
— Full-Count フルカウント (@Fullcountc2) September 25, 2024
■2024.09.26 Full-Count
指揮官から「好きにせい」 “やりたくない”捕手からの解放も…阻まれた1軍の壁
プロ3年目の1989年に1軍で20試合に出場した山崎氏だが、飛躍のきっかけとはならなかった。4年目の1990年はウエスタン・リーグで2年連続となる本塁打王と打点王の2冠になったものの、1軍では9月下旬以降の5試合出場にとどまった。本塁打と打点はゼロながら、7打数3安打と徐々に結果を出し始めたが、1軍の壁は厚かった。
ただ、「やりたくない」と思っていた捕手業からは解放された。1990年10月7日の巨人戦(東京ドーム)では「7番・一塁」。初めて捕手以外でスタメン出場した。秋季キャンプでは外野にコンバートされた。「キャッチャーに関しては(中日監督の)星野(仙一)さんに“もうええわ、どうでもええわ、好きにせいや”みたいなことを言われたんですよ」と言う。もちろん“待っていました”の展開。喜んで外野の練習に励んだのは言うまでもない。
5年目の1991年、山崎氏は初の開幕1軍入りを果たした。4月6日の開幕・巨人戦(東京ドーム)に代打で出場し、そのまま左翼の守備に就いた(1打数無安打1四球)。開幕3戦目の4月9日の広島戦(ナゴヤ球場)には「3番・右翼」のマーク・ライアル、「4番・一塁」の落合博満に続く「5番・左翼」でスタメン出場(3打数無安打)。「3番・右翼」で出場した5月9日の大洋戦(横浜)では左腕・田辺学投手から待望の1号をレフト場外へかっ飛ばした。
「目茶苦茶いい当たりだったのは覚えていますよ」と振り返った。だが、会心の一撃も、その後が続かなかった。この年の本塁打はこの1本だけ。26試合出場で43打数6安打の打率.140、打点は2だった。「まだこの頃は1軍と2軍を行ったり来たり。1軍のピッチャーの変化球とかに、全くついていけてなかったしね。これはなかなか難しいなぁって思ってやっていましたね」。まさに苦しい時期だった。
記事全文を読む
山﨑武司さん、中日・松木平優太へメッセージ
山﨑武司さん、中日・石川昂弥について「あれくらいのポテンシャルを持っているなら…」
当時のことを明かしました。