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■2025.01.31 adiChubu-ラジチューブ-
中日OB荒木雅博「50本走塁」の真実!敵地での特訓が生んだ奇跡のプレー
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Wikipediaを検証!
以下、フリー百科事典『Wikipedia(ウィキペディア)』「荒木雅博」からの引用です。
「1999年5月30日、ウエスタン・リーグのダイエー戦(福岡市雁ノ巣)で10回二死、二塁走者の荒木は単打で本塁を狙って走塁するが、前進守備の外野からの返球でアウトとなった。仁村(徹二軍監督)は「ここでセーフになれなかったらお前の存在意義がない」と叱責し、その場で二塁から本塁までの走塁練習を50本課した」
「これは事実ですか?」という宮部和裕アナウンサーの問いかけに、荒木さん。「50本までは行ってないと思いますけど」と答えました。
しかし、この試合直後の走塁練習は極めて異例の出来事でした。
敵地での前代未聞の特訓
当時の試合会場は、ソフトバンク(当時はダイエー)の本拠地、福岡・雁ノ巣球場でした。
通常であれば試合後は、ビジターチームは端っこの方で素振りや体幹をするものですが、なぜかこの日はドラゴンズがメインで使用。荒木さんは仁村監督から「お前、セカンド行け。セカンドからホームまで帰れ」と指示されたそうです。
荒木「あれ、誰が見てもホームには絶対帰れないですよ」
宮部「ここにも『前進守備の外野』って書いてますから、さすがの荒木さんでも」
荒木「セーフにならないのは多分、仁村さんたちもわかってたと思うんですけど」
どんなに頑張って走ったとしても、アウトは避けられないタイミング。しかし、それを何度も繰り返し練習させた仁村監督には、ある意図があったのではないかと荒木さんは振り返ります。
仁村監督の真意
荒木「そこに対しての僕の意識の持って行き方。もっと走塁に対して、『お前、そこで生きていかないと、もう一軍でやっていけないぞ』っていうのを多分植えつけたかったのかな」
宮部「荒木さんの、そのストロングポイントのひとつ、生きる道を」
Wikipediaには「50本」とありますが、荒木さんは実際の本数は覚えていないそうです。ただ、それに近い数字ではあったといいます。
荒木「もう延々と2塁から走りました」
宮部「50本って。キャンプでもそんな見ないですよね」
荒木「走りましたよね」
しかしこの時の厳しい特訓が、のちの栄光に繋がったそうです。
特訓が生んだ「奇跡の走塁」
荒木「それがあって、ヤクルトとヘッドスライディングした時に、『あれがあったからかな』っていうところに結びつけるようにしました」
超前進守備のヤクルトから、二塁走者の荒木選手が本塁クロスプレーで勝ち越しを決めた、あの「奇跡の走塁」です。
宮部「あれもあったし、ハマスタでもあったり、もちろんバンテリンでもあった。それに繋がっている」
荒木「繋がったんじゃないか、っていう風に。結局、自分が何か成功を収めた時は、『何かが原因で、要因があって』っていうところを、どこに自分が持っていくかでありまして。だから、いろんなことをしといた方がいいんですよ」
さまざまな経験が力になる、ということです。
経験を糧に前進
荒木「『あれがあったから、自分はここでセーフになれたんだ』。この時はそれを感じましたね」
宮部「繋げて手繰り寄せたのは、荒木さん自身ですしね。それを作った。で、コーチは導いた要因もある」
荒木「っていう風に。今だとね、そこまでやらせてしまうと、またいろんなこと言われたりするかもしれないですけど。自分としてはいい経験になりました。自分の野球に対して、めちゃくちゃやらされることに対しては、僕はもう、なんとも思わなかったのでね」
この向上心と素直さが、”荒木雅博”という選手を作り上げたのかもしれません。
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