■2024.09.03 週刊ベースボールONLINE
【#プロ1年目物語】
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プロ初登板ノーヒットノーランの快挙も3年目以降は1勝もできず…悲運のサウスポー近藤真一
「でも、希望だった中日への入団、そしてノーヒットノーランの2つで僕の運は全部使い果たしてしまいましたね」#近藤真一 #中日ドラゴンズ #dragons https://t.co/nwDRhbTJNy
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【プロ1年目物語】プロ初登板ノーヒットノーランの快挙も3年目以降は1勝もできず…悲運のサウスポー近藤真一
「池さん、高校生がおるだろう」
同期のドラフト3位右腕・西村英嗣をライバル視して、自身の帽子に「打倒西村」と書き込んでみせる負けん気の強いドラ1左腕(なお同年2位は愛工大名電高の大型捕手、山崎武司である)。近藤は夏場までにウエスタンで7試合に投げて3勝0敗、防御率1.29。8月4日の南海戦では、2安打9奪三振の初完封を挙げた。その頃、一軍の星野中日は首位の巨人を僅差で追っていたが、8月7日からナゴヤ球場で巨人三連戦が組まれていた。その9日の3試合目がローテーションの谷間だったのだ。前日の8日夜、試合後の風呂場で池田英俊投手コーチが「監督、明日の先発がいません」と伝えると、星野はこう答えたという。「池さん、高校生がおるだろう」と。
実はこの8日に近藤は初めての一軍昇格をしていたのだ。そして、翌9日の試合前練習を終え、背番号13がベンチに戻ったタイミングで池田コーチが、「きょう投げてみるか」と話しかける。「えっ、ホントに……ですか」なんて絶句する18歳のサウスポー。極度の緊張に襲われ、プレーボールまでの2時間がやたらと長く感じられた。
「前日に一軍に呼ばれたばかりでしたし、それも戦力ではなくて、自分の中ではお手伝いとして呼ばれたという感覚だったんです。僕はこの日の先発は鈴木孝政さんだとばかり思っていました。まさか自分が先発するなんて、とてもじゃないけど思っていませんでした。投げてみたいと思う反面、こんな大事な時期(首位巨人と3.5差)に、自分なんかが先発していいのかという気持ちでした」(週刊ベースボール2000年12月11日号)
巨人ベンチも先発は右の鈴木と読んで、スタメン野手に5人の左打者を並べていた。近藤はプレーボールがかっても、マウンド上で足の震えが止まらなかったという。いかにも気の強そうな風貌をしたゴールデンルーキーも、素顔はエビフライが大嫌いで、中森明菜の熱烈ファンで、趣味は長電話とショッピングという普通の18歳だった。緊張と恐怖が頭の中を支配する。1987年8月9日18時20分、巨人の先頭打者・駒田徳広に投じた第1球は高めに浮くボール球になるが、駒田はボールに手を出してファウルとなる。これが運命を左右する一球となった。
「気持ちがすごく楽になったんです。マウンドに上がったとき、何が一番心配だったかと言えば、笑われるかもしれませんが、ストライクが入るかなということでした。それほど緊張していたんです」
結果的に先頭の駒田を143キロのストレートで三球三振に打ち取り、この夜は長い球史でも特別な試合となる。週べ1987年8月24日号に掲載された、近藤と対戦した巨人打者のコメントは以下の通りだ。
クロマティ「あれでルーキーか? グッド・ピッチャー」
中畑清「打てそうで打てなかった。あのカーブだな、問題は……。三振? フォークボールのようだった」
原辰徳「ぼくにはあまり内角を攻めてこなかった。カーブにやられたねえ。ノーヒットノーランをくったのなんて野球をやってはじめてだ」
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当時の初先発の流れです。